西行鼓ヶ滝
参照:笑福亭鶴光
百人一首にも出てくる歌人、西行法師のお話。
西行法師が三大滝の一つとなっている鼓ヶ滝を訪ねてきてそこで一首、
「伝え聞く鼓ヶ滝に来てみれば 沢辺に咲きしたんぽぽの花」
と詠む。自分でもいい出来だと満足し滝に眺めていると日が暮れてくる。宿が無いかと探し求めるが見つからず、それでも一軒の民家が見つかったのでそこに泊めてもらうことになる。
西行法師が歌を詠みに来たと事情を説明すると、その民家のおじいさんが聞かせて欲しいというので、西行法師は先ほどの歌を聞かせる。すると最初はおじいさんが上の句を手直しし、次はおばあさんが下の句を手直しし、挙句には孫娘が手直しする。初め手直しすると聞いたとき西行法師は腹が立ったのだが、手直しが素晴らしく、上には上がいるもんだと感じ入る。
「音に聞く鼓ヶ滝に打ち見れば 川辺に咲くや白百合の花」
ふと気がつくと家は無く三人も見当たらず、切り株に腰かけている。西行法師の慢心を戒めようと和歌の神様が夢の中に現れたのだった。
和歌の心得は無いが、おじいさん、おばあさん、孫娘の手直しはちゃんと理にかなっているのが判る。いい作品というのはただ情景を素直に詠めばいいわけではなく、機知が必要ってことなのだな。
ただ引っかかったのは、たんぽぽを白百合に替えたところで、この両者は季節が違うではないか?という点だ。白百合は早くても初夏、おそらくは西行法師がこの歌を詠んだときはたんぽぽが咲いていたという事から、季節は春だと推測するのが自然なので、この手直しは詠んだ季節まで替えてしまったことになる。そこまで替えてしまってはフィクションになるが、和歌とはそんなものなのだろうか?
タンポポを英語でダンデライオンというが、以前は、この名前の由来はタンポポの花がライオンのたてがみに似ているからだろうと想像していたが、本当はフランス語で「dent de lion」=「ライオンの歯」だということを何かの本で読んで知った。葉っぱのギザギザから来ていた訳だ。