竜馬がゆく(五)

ここでの大事件は池田屋の変。長州藩を中心とする尊王思想の志士が京都に集まり倒幕を企てようとしているところを、京都守護職会津藩配下にある新選組がそれを察知してこれを池田屋で襲撃する。幕府は朝廷に手を回して新撰組を褒め称え、結果として長州は賊とみなされる結果になる。これを不服とする長州は兵を挙げて京都の幕府方に迫るが、会津や薩摩からなる相手に敗れる。これが禁門の変あるいは蛤御門の変
竜馬と勝がやってきた神戸海軍塾も、それらの一味を出した事により幕府によって解散させられる。
公武合体の路線の幕府はこの長州のクーデターをもって朝敵とみなし、幕府がそれに迎合し第一次長州征討にで、結局長州側が禁門の変の非を認めて家老を切腹させ降伏した形になり、佐幕派に倒れていく。このとき実質的に幕府側のリーダーとなったのは薩摩の西郷である。

この頃の坂本竜馬の発想が極めて創造的。京都に集まる浪士がいづれ爆発する前に北海道開拓に当たらせるというものがその一つ。結局その話が勝海舟を通じて進展する前に池田屋の変が起こってしまうのだが。
そして、自分が私設艦隊を結成、資金は各藩から出させ、通常は貿易で利益を得、いざというときに艦隊となるという構想。これには勝海舟も驚きながらも賛同し、薩摩に金を出させる事を進め、結果して事は前に進むことになる。
今なら株式会社のようなものなのだが、当時海外にあったその仕組みを持ち込む発想が何故竜馬にできて他にできなかったのかという事も興味深い。目を爛々として尊王一本やりという大方の浪士がとった心の広さでは大局観が取れないのだろう。どこか自由奔放に見える竜馬だからこそ、余裕を持って海外に目を向け、それを取り組む策を考えるというメンタリティーが備わったということだろうか。