千両みかん

参照:桂枝雀古今亭志ん生

呉服屋の若旦那の元気が無くなり衰弱していく。父親に頼まれて番頭がその理由を訪ねると、みかんを食べたくて仕方が無いというのだ。人がいい番頭は、それなら自分がみかんを持ってきてやると安請け合いするのだが、季節は真夏、みかんを売っている店がそうそう見つかる訳が無いと父親に気付かされる。

番頭は八百屋やら何軒か回ってある問屋にたどり着くと、問屋は自分のところにはみかんがあると言う。倉庫にしまっていたみかん箱を片っ端から開けていくと殆どのみかんは腐っているのだが、奇跡的に一つだけ食べられるみかんがあった。番頭が売ってくれと言うと、話の経緯を知っている問屋は金は要らないから持っていってくれと言う。番頭はそうはいかないと見栄をきると、問屋はこれまで駄目にした分も含めなければいけないから千両だとキッパリ。

番頭は店に帰って父親に相談すると、父親はそれで息子の命が助かるなら安いものだと、一つのみかんを千両で買うことに。

若旦那はそのみかんの十袋のうち七袋を食べて、残りを父親と母親と番頭で食べてくれといって渡す。番頭はこの三袋が三百両の値打ちと考えているうち、そのみかんを持って失踪してしまう。


枝雀と志ん生とでは幾つか話の展開に違うところがある。特に、問屋がみかんの値段を伝えるとき、枝雀の方では最初タダでいいといってたのが番頭に値段を言えといわれて千両にするが、志ん生の方では最初から千両となっている。個人的に好きなのは枝雀の方だ。人情味があるではないか。


千両が今のお金で幾らなのか知らないが相当の大金のはずだ。みかん一つがなんでそんな値段で取引されるのか。
番頭の言い分はこうだ。その一つのみかんに膨大な(千両相当の)コストが掛かっているからだ。
一方、父親は、息子の命と引き換えなら千両は安い。

この会話だけから想像するに、このみかんは千両以上で売れた可能性がある。父親は相当の蓄財があったと思われ、それでまかなえる範囲なら支払ったはずとも想像できる。だが、売り手は価格を需要で算出したのではなく、コストで算出した訳だ。


子供の頃、冬に買ったみかんを自分の家の冷蔵庫で冷凍保存しておいて夏に食べたりした。ちょっとした贅沢を味わったように記憶している。さらに今ではどうか。みかんは日照調節か温度調節かの技術で、一年中新鮮なものが売られている。